1970年前後の日本について考える、もしくは風景について。 そしてチリについても。

Jinushi Maiko A Distant Duet (still) 2016. Single-channel HD video. In partnership with Museo del Ferrocarril de Madrid. Courtesy of Hagiwara Projects, Tokyo
はじめに、さらに20年さかのぼる。1951年、サンフランシスコ平和条約と同時に締結された「日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約」(旧安保条約)は、米軍の日本駐留を可能にした。1 同条約は1960年、当時の岸信介(安倍晋三元首相の祖父)首相とアイゼンハワー米大統領によって日米共同防衛が明文化されたかたちで改定され、月に調印された。
「風景こそが、まずもって私たちに敵対してくる〈権力〉そのものとして意識された[...]永山則夫は、風景を切り裂くために、弾丸を発射したに違いないのである。」
日本国内での承認に際し、米国の戦争に日本が巻き込まれてしまうという懸念から大きな反対運動が起こり、アイゼンハワー大統領来日が目前に迫った6月15日にはデモ隊が国会議事堂内に侵 入、警官と衝突し、当時22歳だった樺美智子という学生が亡くなり、アイゼンハワー大統領は来日を取りやめた。大きな反対運動にも関わらず、条約は6月19日に自然成立。岸内閣は引責して退任した。
その後日本は高度経済成長の時代を邁進する。1964年には東京オリンピックが開催され、福島では1969年に第一 原子力発電所1号機が着工、同機は1971年に営業運転を開始、1970年3月には大阪で国民の約60%が来場したと言われる日本万国博覧会が「人類の進歩と調和」というテーマのもとに開幕した。世界でベトナム戦争反対運動や文化大革命、パリ五月革命が起こっていた1968年ごろまでには、1970年に予定されている日米安保の自然更新を阻止し条約破棄を目指す運動が学生を中心に再び盛り上がりを見せ、主要大学ではバリケート封鎖が行われ、大規模なデモンストレーションも全国規模で継続的に行われたが、結局、日米安保条約は1970年6月に再び自然更新され、学生運動は一部を除いてその勢いを失っていった。この頃までには、現在まで続く「安定した」保守政権と資本主義が日本の隅々にまで行き渡っており、今日の日本の風景を構成する主たる要素の種が蒔かれた時期と言える。
同じく1970年、南米のチリでは民主的選挙によって社会主義政権が成立したが、急進的な政策によるハイパーインフレや、第二のキューバとなることを恐れた米国の介入により 1973年9月に軍事クーデターが起こり、社会主義体制は崩壊、軍事独裁体制が敷かれた。軍政の治安作戦により3万人が死亡、10万人が国外へ逃亡した。
映画評論家の松田政男、映画監督の足立正生、脚本家 の佐々木守、写真家の中平卓馬による「風景論」が、映画や写真の実践やメディアにおいて論争を巻き起こしたのはちょうど同じ頃のこと。松田、足立、佐々木に映画監督の野々村政行、山崎裕、制作の岩淵進を加えて制作した《略称・連続射殺魔》(1969年)という映画作品が議論の中心となった。
1968年に横須賀米軍基地内の住居で銃を盗み、東京、京都、函館、名古屋で4人を殺害した当時19才の永山則夫2の足跡を追った本作は、松田自身の言葉を借りれば「ドキュメンタリー映画とは言いながら、ただひたすら永山則夫の目が見たであろうところの各地の風景のみを撮りまくって、いわば実景映画とでも自称する他はない奇妙な作品」3 である。松田たちは、貧しい環境で育ち、時代や社会に翻弄された永山の足跡を追って4ヶ月に亘って移動、撮影するうちに「地方の独自性がいちじるしく摩耗し、中央の複製とでも呼ぶほかない、均質化された風景」4 を発見する。そして「風景こそが、まずもって私たちに敵対してくる〈権力〉そのものとして意識された」とし、「永山則夫は、風景を切り裂くために、弾 丸を発射したに違いないのである。」5 と、議論を展開させてゆく。明治から戦後まで様々な分野で議論され、展開され、あるいは見出された「日本の」風景はもうそこにはなく、あるのは果てしない国家と資本によるシステムとしての風景なのだと、「風景」という言葉の含意を根本から変え、新しい権力方法論を示してみせた。
松田たちの風景論から50年以上が経ち、国家と資本による権力構造はますます洗練さ れた形で私たちの日常を覆い尽くし、まさに風景として存在している。無料で楽しむことのできるSNSによって巧妙に埋め込まれた購買意欲を発散させるとき、それが一体誰の権力を後押しし、どのようなシステムに絡め取られる結果を招くのかを見極めることは、日に日に難しくなっている。柄谷行人が『近代文学の起源』のなかで、明治日本におこった「『風景』の出現においてわれわれの認識の布置そのものが変わってしまった」とし、「『風景』以前の風景について語るとき、すでに『風景』によってみているという背理」6 を指摘したよう に、現代を生きる私たちが「風景」をみようとする時、それは松田たちが発見した権力構造としての「風景」以外ではもはや有り得ないだろう。
地主麻衣子の《遠いデュエット》(2016)の風景には、大きな穴があいている。とても都市の反復とは言い難い荒涼 とした場所の真ん中に、その穴はある。《遠いデュエット》は不思議な作品で、近作とは言えないにもかかわらず、地主作品のなかで国内外両方において最も鑑賞の機会の多い作品になっている。シングル・チャンネルであるというある種の手軽さも要因のひとつと言えそうだが、もちろんそれだけではない。ここに表れていることの何かが私たちの心を捉え続けるのだろう。それは何か。ここに映し出されている「穴」と、1960年代末から1970年代の日本に現れた「風景」は、どのように結びつくだろうか。
まず穴について。地主の穴への関心は、前年の2015年に参加した「わたしの穴、美術の穴」というリサーチ・プロジェクトとそこから派生したグループ展から、一旦は継続しているように見える。同リサーチは、風景論と時代を同じくする1970年に、榎倉康二、高山登、藤井博、羽生真が行った展示についてのもので、興味深いことに当時彼らは全員「穴」を作品にしている。地主は、このリサーチがその後の自身の制作に大きな影響を与える重要なものとなったとする一方で「ひとりの人間が何かをつくることのリアリティには、学生運動とかもの派のマッチョ的な世界観だけでは語りきれない何かがあるはず」とも感じていたという。7

Jinushi Maiko A Distant Duet (still) 2016. Single-channel HD video. In partnership with Museo del Ferrocarril de Madrid. Courtesy of Hagiwara Projects, Tokyo
「かつて、1970年代に、風景には大きな穴が空いていた。一部の人々は、学生たちは、社会に対してその穴の存在を知らせようとした。」
2015年当時は、東日本大震災・原発事故を経て再び日本社会全体の保守化が進んでいた時期で、2013年に成立 した「特定秘密保護法」8 に加え、4月に自衛隊の集団的自衛権を認めた「安全保障関連法」が成立した。地主は「なし崩 し的に保守化してゆく社会」に混乱するなかで、《遠いデュエット》の主題でもあるチリ人の小説家、ロベルト・ボラーニョの作品に出会う。地主が本作で引用している「野生の探偵たち」(1998年)9 は、ある詩人の足跡をたどってメキシコ北部へ旅立ったふたりの前衛詩人の行方を追う、半自伝小説と言われている作品だ。この小説は一風変わっていて、物語を推進させるはずの主人公は存在せず、本題とほとんど関係なさそうな人々によるとりとめのない会話が続く。地主は、この文字通り延々と続くどうでも良い会話でこそ成り立つ世界の捉え方と、ボラーニョの一貫した社会やコミュニティにおける他者、よそ者としての視点に強く惹きつけられたと言う。1970年に成立したチリの社会主義政権を支持していたボラーニョは、冒頭で触れたクーデターに巻き込まれ、逮捕、勾留されたのち、メキシコへ移住、1977年にスペインへ移り、2003年に同地で没した。地主は《遠いデュエット》で、スペインでボラーニョの姿を追う。前述の《略称・連続射殺魔》もまた、「すでにここにいない人」を追うもので、どちらもファインダーを覗いているのが誰なのかということを、文脈的、あるいは後から映像に重ねられる「声」によってのみ押し測ることができ、それがやがて真実然としてゆく映像というメディアの特性に触れるものなのだが、ボラーニョの『野生の探偵たち』もまた、表現媒体こそ異なるものの「すでにここにいない人」を探す物語である。
《遠いデュエット》第四章「穴」において地主は、『野生 の探偵たち』の、子どもが深い穴に落ちたのに、大人たちは怖がるばかりでだれも助けにいかないという箇所を引用し、相手の女性に「日本人は穴を見たことを忘れてしまうと思うんです」と言い、相手を困惑させる。地主の発言に現れているのは社会への徹底的な不信感であり、無力感であり、諦めのようなもので、それこそが地主とボラーニョを結びつけ、さらには風景論とも呼応するものとは言えないだろうか。
かつて、1970年代に、風景には大きな穴が空いてい た。一部の人々は、学生たちは、社会に対してその穴の存在を知らせようとした。《遠いデュエット》のなかで女性が、地主とのコミュニケーションに苛立ちつつも、「私たちは穴を取り囲まないといけないの それを表出させる試みとしてね」と言う。しかし、現実の日本の社会は穴を無視し、無視し続けた結果、一斉に忘れた。今この瞬間も、誰かが穴に落ちているかもしれない。今回、この原稿を書くために「風景論」を再訪して、松田が主張した「風景を切り裂くためにこそ永山が弾丸を発射したに違いない」というある種のヒロイズムを理解することが難しいと感じていた。学生運動が限界を迎え、新しい時代が「風景」として強固に立ち上がり、それに抗うことのできない都市生活者としての自分を顧みた時、彼らはやはり暴力に、ある種の理想の発露を見たのだろうか、と。しかしもしかしたら、風景論を出発点に地主の作品、引いては日本の社会について考えた時、権力としての風景を切り裂くことと同時に、風景に呑み込まれた社会における、忘却や無視への抵抗としてもこれらを考えることができるのだろうかとも、考えるようになった。
社会による忘却もまた、強大な権力になり得るはずだから だ。過去50年の間に、「風景」は様々な要因で切り裂かれてきた。福島で、京都で、能登で、沖縄で、奈良で、ニューヨークで、アレッポで、ヤンゴンで、アウディーイウカで、ガザで。しかし、それはいつも市民によるものとは限らなかった。権力こそが異なる権力の風景を切り裂いていて、新しい穴が生まれている。それでも人々は忘れ続け、システムは強固なままだ。
参考文献・作品
William Andrews. ‘Japanese landscape theories, pre and post’. 2 September 2023. Throw Out Your Books, 2 December 2024. https://throwoutyourbooks.wordpress.com/2023/09/02/japanese- landscape-theory-exhibition/
佐々木友輔「コールヒストリー」2019年、89分